昭和47年6月23日 月例祭における教話


 御理解の中に、思いこみという事、有り難い事、または尊い事と。いわゆる、有り難い事、尊いことがその思いこめれるという信心に、といったような事を今日の御理解の中に頂きました。というのは、私が毎朝、朝の御祈念の、若先生の御祈念が始りますと、その、私は御祈念が三十分、だいたい三十分間で終わります、その間を待つ訳です。で、ここで毎日〔    〕のある方が24~25名あるんです。で、そのお日届け、お参りは出来ないけれども、お日届けだけはしておられるという方。そのお届けをずっとさせて頂きますと、だいたい十五分ぐらい掛かるんですけれども。

 えー、そして、後十五分が教典を頂いて、そして皆さんが毎朝頂いて下さる、その御理解になる訳でございます。言うなら、私が御神前でお知らせを頂いたり、またはお気付けを頂いたり、お夢を頂いたり。そうした事と、あー教典とを開いて。そこから、私はその十五分間、その事について思索、どういう意味だろう、どういう事だろう、どういう繋がりがあるのだろう、という訳で十五分間、思索いたします、やりますと、ちょうどお話をさせて頂く〔なんどり?段取り?〕なる訳です。そして、建郎先生の御祈念が終わるという感じです。

 中に、福岡の松岡さんがお届けがありました。そしてから、中場頃に熊本の松村という石油のお店がありますが。そこが、お日届けがあっておりますから、松村石油と松岡吉田さんのお届けをさせて頂く訳でございます。これは、もう毎朝の事なんですけれどもね。この松の字を書くとです。この松の木を書くときに、松の字を書く時に、松の字じゃない、松の字を書く時に、もう以上な言うならば、昨日感じた感じとはまた違った、いわゆるさらな心と言うのでしょうかね。さらな、感動を私は覚えるのです。という話を致しました。

 皆さんも御承知のように、九州に御縁を頂きます者は、そういう、私はそう言っておる。松の信心という事を言っとります。小倉の初代が桂松平先生。久留米が松次郎先生、石橋松次郎先生。えー、甘木が安武松太郎先生。まあ、時を同じゅうしてから、桂門下に、その松の字がつく方達が二人でけられて、師匠の松平先生と共に、三人のいわゆる九州の三松と言うて、もう霊長の中で大変有名であったという事です。けん、私はそういう松に繋がる信心を、まあ合楽も頂かせて頂いておるけれども。

 もう本当に〔   〕、これはいつも思うのですけれどもね、もう私の力とか、私の例えば取り次ぎによって人が助かるなどとは、もう夢にも思いません。まあ、ただ私が助からなければならない精進だけはしますよ。ね、けど皆さんが助かられる為にという事にはね、それは私が助かって行く力をもし受けて行きゃ、そういう働きになるかも知れんけれども、それとても、やはり松の信心。やはり、だから松の信心ということは、まあ言うならば金光様の御信心、金光様のお取次ぎ。まっ、言うならば神様のおかげという事になるのですけれども、この松の字で頂いたが一番実感的だという事なんです、私にとっては。ですから、松の字を見ると、いわゆる新たな感動が湧いてくる。

 これはもう、昔の御信者さんの中にですね、もうあの金光様の金の字が新聞やら雑誌に出ておると必ずその、切りとってそれを大事にされたというお婆さんの話を昔聞いた事があるんですけれどね。というくらいに、例えば金の字、一文字を見ても金光様を感じなさる訳でしょう。感じるからそれを大事になさる訳でしょう。ね。私は皆さんにも何人もの方に書いて差し上げとります。私の〔金庫?〕の中に、金庫?の中にこのお届けをさせてもらいます机のお初穂が閉まってある中には袋に金が入って、毎日銀行から取りに来るのに渡さなければならなん、〔袋ごと?〕渡すわけです。

 まあ、これは、まあ久富さんの仕事なんですけれども。その袋にね、松のめぐみは真実の理と書いてあります。皆さんのお財布の中にもそれが入っとる人ぐらいはあろうと思う、ね。松のめぐみは真実の理と。例えばね、金庫を開ける度に、財布を開ける度にお金がね、こうやって使わせて頂けるお金を頂いておるという事は、ね、これはもう、私の働きによって得た物ではない、神様のおかげで頂いたんだという実感。神様のおかげで頂いた、そういう実感の内容込もったお金であって、初めていわゆる、ね、神様のおかげと実感させて頂く。これは、金だけじゃありませんけれどもね。健康なら健康だってそうなんですけれども、ね。
 神様のおかげで得ているんだと、自分が今日はごがしこ働いたけん、こがしこ〔    〕というお金が、例えば億万貯まったところで、それは徳の裏付けという事にもならなければ、それがいよいよ繁昌の元になるような働きはしません。神様のおかげで頂けた。ね、命もそうです。もう今日も神様のおかげでお生かしのおかげを頂いたという実感が、本当な物になって来るという事。はあ、手が動いておるな、足が動いてるなと思うただけでも感動が湧いてくるというほどしの信心。神様のおかげなればこそという事。

 ね、財布の中を見せて頂く時に、ね、例えば残りが少なった、財布が底をついたと。それでも入って来ないと言うならば、まあだまだ神様のおかげの実感というものが、本当に出けていないのだ。ね、そこで神様のおかげを頂いて、という例えば皆さんの、なら金庫の中なら金庫の中に、えー、ね、松のめぐみという事が本当なんだ。それが本当の理なんだと分からせて頂いて、言うならば心でいつも参拝〔くはい?〕健康させて頂けるほどしのおかげが頂けたなら、財布が拝めれるようになったなら、そういう意味合いにおいて。

 貴方のお財布の中にはもう尽きる事のない財のおかげを頂くだろうと言うて、私がそれに書いた。ね。それをなら、私の実感というのは、毎朝〔松平字?〕を書かせてもらう、松村と書かせてもら時、松岡と書かせてもらう時にです、新たな感動が湧くほどに感ずるという訳です。と、私は思いこんでおる訳です。神様のおかげを頂かなければ出来ることではない。これは、財だけの事じゃありませんです。本当そうです。神様のおかげを頂かなければ、頂ける事ではないという実感なんです。ね。実は今日、私も、まあ言うならばビックリするというか、玉縄が切れるような事があったんです。

 昨日から椛目の方であの、安子がおなかが悪いと言うて、今朝からお届けがあった。朝の御祈念に、向こうが参って来ておりましたが。また二度参ってきて、大変悪いようだから、愛子ちゃんに手伝いに来てもらえんだろうかと言うて来とるとです。まあ、それからというものは、もう引っ切り無しに電話で、その様子を知らせて来るわけですね。もう爪の色が変わった。もう意識が遠くなった。意識が不明になったというような訳なんです。ちょうどそういう時に、私はだから今日は十時過ぎに、からもう座っておりました、もうずっとこう、電話が掛かってくるもんですから、親先生ち言うて。

 ね、それで、その、だいたいは私に来て欲しいと言うんですけども、私が行ったところで仕方がないのですから。私は御結界奉仕をさせて頂いて、家内はすぐやりました。で、家内が参りましたら、こう一時こう持ち直しましてね、顔色が出たり、何かおかげを頂いた。けれども、その後すぐ、まあ悪かった。そういう悪い、悪いという時にです。ならいかに私でも、やはり私の肉親のいわゆる姪であるし。姪と言うても私の子供同様にして、まあいわば育てた子供でございますから。ね。

 その時にちょうど、あの高松さんがお参りをして来ておる。それで、それを聞かせて頂いて、高松さんのお届けがあった。私が座ったら、一番に高松さんのお届けがあった。ね、そん時に今朝の御理解じゃないですけれども、私はその高松の松を書きながらです、しかも高度な神様の働きと言うか。ね、そういう働きの中に起こって来る事であるから、おかげだと私は実感しました。もう本当に心は平生でした。ね、はあ心がこげん平生だから、これはおかげ頂くという事では、それはおかげを頂くという事は、そういう事じゃない。ね。

 まあ考えてみますと、もう残念で残念でたまりませんけれどもです。そういう、いわば高度な神様の働きを受けて。ね、働きの中に、しかもこういう一分一里も常日頃間違いのない働きを受けておる、そういう働きの中に降る事も照る事もまた、それこそ、これが嵐であろうかと思うような事もあるのです。ね。私は今晩はまだ、あの、これは〔れいじょう?〕して申します、お話しますまいかと思ったけども、母がおりませんから。まだ母には、まだその、危篤状態が続いておるとだけ言ってあるんです。実は、もう二時なんぼにお国替えのおかげを頂いております。

 ね、例えばなら、これはお互いがみんな、一偏はそうなんですよ。誰かが、いつか、しかも思いもかけない。それこそ、聞いただけでビックリ仰天。まあ、昨日、朝まで来ちゃったが。ね、この前は〔つくがら?〕に合わせて琴の御用を頂きござったが。もうあの世、この世を境にして、夕べ、今日におる事なんです。まあ、人間の寿命ってね、本当に、もう本当に分からないもんだと思います。という訳で私は、只今からあの、洗礼に参ります。

 〔     〕。そして明日、火葬祭を致します。それから明後日、告別式という段取りなのでござい。まあ、皆さんの色々お世話にもなる事でございましょうけれども、まあ色んな行事の合間、合間をぬうようにしてお繰り合わせを頂いておるという事。という事でも、言うならば神様の一分一理間違いのない御働きの中に、しかもです、ね、高松。高度な神の働きでしょう、高松て事は。ね。しかも和子とは和の子と書いてある。ね、と思わせてもらい、分からせてもらったら御礼を申し上げる事意外にはない。

 信心していて、これから先どのような事が起きてきても驚かんで済む信心。信心して、ね、変わった事が起きてきたら有り難いと心得て信心せよ、この二つなんだ。ね、どのような場合であっても驚かんで済む信心。どのような場合であっても、信心して願って起きて来た事であるならばです、有り難いと心得てと。その有り難いと驚かんで済むという、この二つが合った時に、一切を御の字で受けた時であり、合掌して受けた時であるという事になります。ね。

 まあ言うならば、今日は泣きの涙ででもお話せんならんような事でございましょうけれどもね。おかげを頂いて、それは人間ですからね、叩かれりゃ痛いし、抓られりゃやっぱ痛いです。けれども、それよりもっと、もっと思わせて頂く事は、そういうすばらしい高度の神様の働き。合楽には現れとるおかげという物はもう、本当に最高度の私は神様の働きを受けておると、こう思うのです。それは信じます。そういう働きの中にですよ、ね、起きてくるのでございますから、それもまた、おかげであると私は信じとります。

 ね、これからも何回か、例えば〔愁嘆場?〕に会わなければなりません。これはもう覚悟して行かなきゃなりませんけれども。ね、ただ、今申し上げましたような事を、なら皆にも聞いて納得できんにしましても、間違いのない働きであって、かくこうなったんだという事をね、頂かせてもらわせて、もらえなければ、信心を頂いておる本当の値打ちはないと思うのでございます。今日はそんな訳で、簡単ですけれども、只今からあちらの方にやらせて頂きます。また今後ともどうぞよろしゅうお願いを申します。


                     末永信太郎 〔 7月9日 〕